依存症の仲間と共に(まだ苦しんでいるアディクトに…)

依存症治療後からの日々の様子になります。

私が狂った理由と治療経過。

私の3.11

おはようございます!


東日本大震災から10年。

被害に遭われた方

未だ大切な方が見つからない方

かける言葉がわかりません。


私が地元を離れて

関東にやってきたのは10年前の2月

3月11日養父は仕事で海外に行き留守でした。


私は横浜駅で遅めのランチを食べていました。


(あっ…地震だ。)始めはその程度でした。

ところが経験したことのない強い揺れは

長い…


(これは尋常じゃないっ

飲食店の窓は一面がガラスでできていて

割れて倒れてくることを

想像し死を意識した。

どうしたらいいんだろう…

揺れが収まり私の浅知恵は

ホテルだ!ホテルなら造りがしっかり

しているしトイレもある。)


すぐさま店を出て近くのホテルのロビーへ

まだ殆ど人はいない。

ソファが空いていたので腰掛ける。

すぐにお義父さんに電話をして

(あのね地震があったんだけど

これ普通じゃない!)

それきり電話は繋がらなくなった…


気づけばホテルのロビーは

黒い人だかり床に座り込んでいる人も居て

歩く隙間もない。


私の隣にはお爺さんが…

「自宅にいるお婆さんと連絡が取れない。」

とても不安そうだ。


時間だけは刻々と過ぎていく。

私もしばらくは頭が真っ白だったけれど

周りの人達の行動が目に入ってきて

気づいた。


観光でやってきた人なのだろうか?

きっとお土産に買ったお菓子だろう。

封を開け

皆んなに配っている。

 

私はハッ!として

飲み物食べ物がいる。

隣のお爺さんに

「私 今からコンビニに行ってきます。

何か欲しいものありますか?」

「お言葉に甘えて

飲み物とクラッカーみたいなものを

お願いします。」


すぐ近くのコンビニ前でも驚いた。

お店に入るのに人が並んでいる。


お店に入ることは出来たが

ペットボトルが何とか買えただけで

パンやおにぎりはない。

チョコレートを買う。


お酒があったが

何だか不謹慎な気がして

買わなかった。


「お爺さん

これしかなくて…ごめんね。」

お爺さんから何度も何度も

ありがとうと言われた。


しばらくして

お爺さんが自宅行きのバスが動き出しました。

お婆さんが心配なので

先に失礼します。


お爺さんは去っていった。


地震から

8時間後 私が帰るのに使ってる

路線が動き出した。

私は猛ダッシュで駅に向かい 

無事電車に乗ることが出来た。


最寄り駅は停電で真っ暗

お巡りさんが誘導してくれた。

自宅に戻っても何度も何度も余震は

続く…

電話は繋がらない…


翌日 地元の友達に連絡がとれて

うちにはテレビがないから

何が起きているのか小まめに

連絡を取り合った。


数日後計画停電が始まるから

友達から帰って来い。と言われた。

慌てて荷物をまとめて

新横浜に向かう。

一度乗り換えをして一駅。

ところがJRが運行見合わせで止まっていた。


歩くしかない。

まだ地理のわからない私は

たった一駅の新横浜まで大きなキャリーバッグと共に1時間歩いた。


新横浜駅は人でいっぱいだった。

特に外国人が目についた。

私は何とかチケットを購入して

新幹線に乗る。


1時間後新幹線も

運行見合わせになった…


前にブログで書いたこと。

横浜駅は嫌いだ。

来たばかり頃

風俗の仕事の待機場所だったこと。

薬を買いに行く場所だった。

そして東日本大震災…


今でもなるべくなら

避けたい駅です。 


東北の皆さん

何の力にもなれませんが

私福島産の食べ物気にせず

頂いています!


東北に行った事のない私

お金に余裕ができたら

行きたいです!


人を信じられない病の私ですが

震災により

日本人の優しさ強さを学ばせて

貰いました。




今日はこの本を読み

人の死について悼みたいと思います。


合掌…

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